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2007.11.16
ステレオグラム
こんばんわ (^^
設計事務所はようやく山を越えたようです (^^
さきほど電話したんですけど、声が明るかった!(笑)
ま、そんなこんなでまだ打合せしておりませんで、ネタ詰まりなもので・・・(^^;;
ちょっとステレオグラムを作って見ました。これは「交差法」と呼ばれる種類です。
詳しい解説は検索していただければウィキペディアなどに出ていますが
要は2枚の画像を見ながら「寄り目」をすると画像が3つ並ぶようになります。
最初のうちは画像と目の中間に指を立ててそれを見ましょう。
視線はそのままでそっと指を抜きます。
その真ん中の絵が・・・!!
見えましたか?慣れるのにちょっと根性いるかも知れませんけど・・・面白いでしょ(^^)
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2007.07.24
記憶の背景
ちょいと酔っ払っております(^^;;
こんなとき、自分が出ます。。酔っ払いの本音です(笑)
最近、ちょっとおかしい。
建築家としての自分と、家族を大事にしたいという自分が葛藤?している。
施主となった建築家が家族感情をどれほど無視できるのか?という命題に挑戦するべく始めたブログは自分を追い詰める(^^;;
建築家が一般民間と乖離する現状を食い止める布石になればと始めたけれど、その壁の厚さに辟易。。。
すりあわせをしようとすればバランスを失う(^^;;
我々は、自分の作品を世に残すという生理的な本能によって建築しているわけではない。(私に限ってかもしれないが)
しかしながら、価値を共有できない一般の目にはそれが理解してもらえない。(理解できれば建築のプロだし・・)
目の前の利益・目の前の欲求。。。デザインされた「かっこいい」製品群。。便利のいい機器。。商業主義が充満している空間。。
便利という言葉はあまり好きじゃない。人類は便利を求め、結果堕落に近づいているのじゃないか?(意味不明その1)
哲人的な思想を一般に強要するのは無理がある。俗世を否定する前に自分の俗が存在している。私自身、便利を求めていたりする。私は欲深い人間である!(意味不明その2)
建築哲学を追い求め、建築家としての誇りを持ち、俗人としての悩みを抱きながら今の私は存在している。
だがしかし。。。これだけは死守しなければいけない。
私は記憶の背景を創りたい。
これまでの私の作法はこれに尽きると思う。

一枚の写真の中に我が子の喜びがある。彼女にとってこの写真は記憶の片隅に残るものだと確信している。この背景にデザイナーとして私は私に出来うる最大限のデザインを施したい。生活のシーンは記憶として娘に残り、その人生において何度もリピートされるであろう。その背景を私は創りたい。
それが出来ないのであれば、建築家としての職能など無意味だ。白旗を掲げ、工業生産・経済優先のシステムに屈っしよう。
散々考えて・・・一般に理解してもらうための方法を模索し、自身の一般化に驚き、自身の建築を再認識せざるを得なくなったとき、最後に残った結論。
多分、明日の朝には忘れてますけどね(汗)
こんなとき、自分が出ます。。酔っ払いの本音です(笑)
最近、ちょっとおかしい。
建築家としての自分と、家族を大事にしたいという自分が葛藤?している。
施主となった建築家が家族感情をどれほど無視できるのか?という命題に挑戦するべく始めたブログは自分を追い詰める(^^;;
建築家が一般民間と乖離する現状を食い止める布石になればと始めたけれど、その壁の厚さに辟易。。。
すりあわせをしようとすればバランスを失う(^^;;
我々は、自分の作品を世に残すという生理的な本能によって建築しているわけではない。(私に限ってかもしれないが)
しかしながら、価値を共有できない一般の目にはそれが理解してもらえない。(理解できれば建築のプロだし・・)
目の前の利益・目の前の欲求。。。デザインされた「かっこいい」製品群。。便利のいい機器。。商業主義が充満している空間。。
便利という言葉はあまり好きじゃない。人類は便利を求め、結果堕落に近づいているのじゃないか?(意味不明その1)
哲人的な思想を一般に強要するのは無理がある。俗世を否定する前に自分の俗が存在している。私自身、便利を求めていたりする。私は欲深い人間である!(意味不明その2)
建築哲学を追い求め、建築家としての誇りを持ち、俗人としての悩みを抱きながら今の私は存在している。
だがしかし。。。これだけは死守しなければいけない。
私は記憶の背景を創りたい。
これまでの私の作法はこれに尽きると思う。

一枚の写真の中に我が子の喜びがある。彼女にとってこの写真は記憶の片隅に残るものだと確信している。この背景にデザイナーとして私は私に出来うる最大限のデザインを施したい。生活のシーンは記憶として娘に残り、その人生において何度もリピートされるであろう。その背景を私は創りたい。
それが出来ないのであれば、建築家としての職能など無意味だ。白旗を掲げ、工業生産・経済優先のシステムに屈っしよう。
散々考えて・・・一般に理解してもらうための方法を模索し、自身の一般化に驚き、自身の建築を再認識せざるを得なくなったとき、最後に残った結論。
多分、明日の朝には忘れてますけどね(汗)
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2007.07.10
なんとなくパブリック
生まれてこのかた○十年、我が家での朝の挨拶は
私:「おはようございます」
親:「おはよう」 です。
我が子にもそうあって欲しいと思っているのですが、なかなかそうはいきません。
娘:「おはよー」
親:「おはよう」 だったり
親:「おはよう」
娘:「・・・ょぅ」 だったり・・・
最近どうにかなる日も出てきましたけど・・・(^^;;
朝一番、一日のうちこの一瞬だけ(これ以上は必要ありません)
明確なヒエラルキーというか、年長に対するケジメが必要じゃないかと思う私は古い?(もっとも、オトナがだらしなくてはどうしようもないんですけどね・・・)んでしょうね(笑)
家族は世の中で一番小さな社会的集団です。
家はその社会的集団をシェルタリングして、家族のプライベートを守る存在なんですけど、その中になんとなくパブリックが存在する・・・パブリックを意識できる空間があるとその最小の社会集団っていろいろな距離感が生まれて楽しくなるような気がするんですよねぇ。
個室=プライベート
リビング=パブリック
のように明確な区切りがあるんじゃなく
なんとなくプライベート
なんとなくパブリック
そんな仕掛けを施しておきたいなって、ふと考えてみました。(^^)
私:「おはようございます」
親:「おはよう」 です。
我が子にもそうあって欲しいと思っているのですが、なかなかそうはいきません。
娘:「おはよー」
親:「おはよう」 だったり
親:「おはよう」
娘:「・・・ょぅ」 だったり・・・
最近どうにかなる日も出てきましたけど・・・(^^;;
朝一番、一日のうちこの一瞬だけ(これ以上は必要ありません)
明確なヒエラルキーというか、年長に対するケジメが必要じゃないかと思う私は古い?(もっとも、オトナがだらしなくてはどうしようもないんですけどね・・・)んでしょうね(笑)
家族は世の中で一番小さな社会的集団です。
家はその社会的集団をシェルタリングして、家族のプライベートを守る存在なんですけど、その中になんとなくパブリックが存在する・・・パブリックを意識できる空間があるとその最小の社会集団っていろいろな距離感が生まれて楽しくなるような気がするんですよねぇ。
個室=プライベート
リビング=パブリック
のように明確な区切りがあるんじゃなく
なんとなくプライベート
なんとなくパブリック
そんな仕掛けを施しておきたいなって、ふと考えてみました。(^^)
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2007.07.02
部屋の名前?
たまにはデザインの話など(笑)
リビング・ダイニング・子供部屋・・・
部屋には名前がありますよね。
「うちは3LDK」なんて表現が当たり前のように使われてます。
で、そのリビングって「家族団らんの場」になってます??
子供たちは「自分の部屋=子供部屋」に鍵までかけて閉じこもってませんか?
リビングに居るのはお父さんだけ?
「nLDK」って言葉で検索かけてみてください。
いろいろな問題提起が出てくると思います。
リビングを作るのではなく、家族が集まる空間を作ることが大事だと思うんですよね。
最初から部屋に名前つけちゃうと部屋はその機能を持とうと意識します。なんの名前も持たない部屋はどのように使われても違和感はありませんけど、名前の付いた部屋は名前の通りに使うための特徴を持ってしまうのです。
住み手は部屋から「此処ではこういう暮らしをしてくれ!」って押し付けられた気分になってしまうかもしれません。
それって窮屈じゃないですか?
部屋の名前って、住みはじめてから付くぐらいがちょうどいいんじゃないでしょうか。。(^^)
「なんか此処にみんな集まっちゃうから、リビングって呼ぶ?」みたいな。。(笑)
リビング・ダイニング・子供部屋・・・
部屋には名前がありますよね。
「うちは3LDK」なんて表現が当たり前のように使われてます。
で、そのリビングって「家族団らんの場」になってます??
子供たちは「自分の部屋=子供部屋」に鍵までかけて閉じこもってませんか?
リビングに居るのはお父さんだけ?
「nLDK」って言葉で検索かけてみてください。
いろいろな問題提起が出てくると思います。
リビングを作るのではなく、家族が集まる空間を作ることが大事だと思うんですよね。
最初から部屋に名前つけちゃうと部屋はその機能を持とうと意識します。なんの名前も持たない部屋はどのように使われても違和感はありませんけど、名前の付いた部屋は名前の通りに使うための特徴を持ってしまうのです。
住み手は部屋から「此処ではこういう暮らしをしてくれ!」って押し付けられた気分になってしまうかもしれません。
それって窮屈じゃないですか?
部屋の名前って、住みはじめてから付くぐらいがちょうどいいんじゃないでしょうか。。(^^)
「なんか此処にみんな集まっちゃうから、リビングって呼ぶ?」みたいな。。(笑)
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